2013年2月24日日曜日

なぜ有権者の「メール」利用はダメなのか?―ネット選挙解禁法案、協議の焦点



 現在、ネット選挙運動解禁について、各党の協議が続いている。与党は、選挙運動用メールの送信を、政党と候補者に限り認め、それ以外の有権者には認めない方針である。
 これに対し、早くも反発の声が聞こえてきている。例えば、「ネット選挙運動、公明党の反対により私たち一般人のみ全面解禁ならず」(ガジェット通信)という記事が、twitterなどで大きな反響を得ている。
 確かに私も、有権者にも選挙運動メールの送信を認めるべきであると考えている。ネット選挙解禁ということで、うっかり友人に「君が住んでいる所の、あの候補者、結構いいよ」とメールを送ってしまうと、選挙違反になる可能性があるというのは不条理に感じられる。だが、当然このような批判を覚悟してまで、メールを規制するというのは、それなりに「理由」があるはずである。そのような「理由」をきちんと取り上げずに、ことさらに「敵」を作り上げて叩くことは、生産的な議論とは言えない。「敵」を叩くのではなく、「理由」に丁寧に反駁していくことが、少しでも良いネット選挙解禁に繋がるのではないだろうか。
 2月13日の「自民党選挙制度調査会・インターネットを使った選挙運動に関するPT・総務部会合同会議」で配られた資料では、すでに電子メールの送信主体は政党と候補者に限定されている。
 そちらの資料では、有権者のメールを制限する理由を3つ挙げている。第一に、密室性が高く、誹謗中傷やなりすましに悪用されやすいという点である。候補者や政党の見えないところでデマや誹謗中傷が広がることを懸念しているということである。第二に、選挙運動用メールについては、氏名や電子メールなどの連絡先を記入しなければならないことになっているが、違反すると、1年以下の禁固、30万円以下の罰金などがあり、さらに公民権停止もありうる。このような処罰から有権者を守るためには、選挙運動用メールの使用そのものを有権者に関しては禁止してしまえばいいのではないかというのである。第三に、悪質なメール(ウイルス等)により、有権者に過度の負担がかかる恐れを挙げている。
 私がこれらの理由に反論するならば、第一の理由については、ソーシャルメディアであってもダイレクトメールなどを使うことによって、ほとんどメール同様のことができるので、メールだけ規制する理由にならない。現実にこれまでの選挙でも、嘘とも本当ともつかないウワサ話が飛び交うのは日常茶飯事である。候補者・政党が気が付かないからと言って、メールのみ規制するのは意味がないように思われる。第二に、確かにメールアドレスを記載するなど「決まり事」があるが、そんなに有権者を大切に思うのであれば、有権者が送るメールに関しては、「決まり事」を外すべきだし、罰則も対象外にしてしまえばよい。第三の点に関しては、確かにウィルス付メール、迷惑メールは問題であるが、この問題もメール固有の問題ではなく、ソーシャルメディアでも、同じようなことが起こる可能性が考えられる。さらに別途、迷惑メール防止法あるいは電磁的記録の改ざんということで刑法の罰則もある。そちらの対応を強化するというなら話は分かるが、有権者のメール利用を制限する理由には、これもならないように思われる。
 以上、私としては選挙運動メールを有権者のみ制限することに反対である。しかし最初に述べたように、制限すべきだという主張に全く「理由」が無いわけでは無い。であるならば、もっとその理由について、国民の納得が得られるように、情報をもっと発信して行くべきだろう。特に名指しされた公明党はなおさらである。野党にも注文がある。少なくとも自民党は、上記の理由を示しているはずである。ならば「与党は国民の側に立っていない」と、世論を煽るのではなく、丁寧に「理由」に対して反駁し、反対派を説得する言説を作り出していってほしい。この問題が政争の具になってしまうことこそ、国民が一番不利益を被るということを忘れてはならない。

2013年2月20日水曜日

オバマ政権、「暗殺の基準」の波紋


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今月4日、アメリカNBCニュースが、司法省の公式文書(white paper)をスクープした。各国メディアはこれを大きく取り上げている。
 この公式文書は、外国にいる自国民を無人偵察機などで殺害する場合の法的正当性について述べたものである
 「targeting killing(標的殺害)」といわれる、この殺害作戦の主要な設計者の一人は、ブレナン大統領補佐官といわれている。そのブレナン氏が第二期オバマ政権のCIA次期長官に指名されている。そして就任の可否を巡る公聴会前という、絶妙のタイミングでのNBCへのリークであった。当然、上院特別委員会の公聴会は大荒れとなった。
 NBCニュースが入手した16ページの文書(PDF)によると、その基準とは、アルカイダなどのテロ集団であって、(1)アメリカに対し「差し迫った脅威」があること、(2)ターゲットの身柄の確保が難しいこと、(3)武力行使の基準に適合しているものである時、自衛権の一環として、自国民に対してであっても標的殺害は、許容されると述べている。
 問題なのは、肝心の「差し迫った脅威」の定義がされておらず、自衛権の発動だとしても、その要件をかなり拡大してしまう点である。2011年9月には、反米活動の指導者で米国籍を持つアンワル・アルアウラキ師を殺害し、同時にやはり米国籍を持つ雑誌記者サミル・カーンを殺害している。数日後には当時16歳であったアルアウラキの息子も殺害されている。アルアウラキ師については様々なテロ容疑はかかっていたが、正式に起訴されていたわけではないし、具体的なアメリカの攻撃計画があって殺害されたわけでもない。残る二人については、容疑すらかかっていなかった。
 これでは、アメリカ政府が「脅威」と認定したならば殺害してもいいということに等しい、と思えてしまう。オバマ大統領は、無人機による殺害作戦を活発化させている。ブレナンがCIA長官になれるかどうか、あまり日本では報道されていないかもしれないが、その影響は今後大きいかもしれない。


オバマの戦争オバマの戦争

2013年2月17日日曜日

オバマ政権-オープンガバメントはさらに進むか?


White Houseのトップページ・オバマ大統領の演説が掲載され、閲覧者はコメントを入れることができる。


オバマの2期目政権が始まってから、約1か月が経とうとしている。2009年の第一期目スタートの時と、今回を比べると、一つ大きな違いがあることに気が付く。それは「オープンガバメント」に対する姿勢である。
 2009年の最初の就任演説、オバマ大統領は「今日問われているのは政府の大きいか小さいかではなく、機能するかどうか」であるとし、「人々と政府の間の信頼関係」を再構築すると宣言した。
 そして就任式直後、『透明性とオープンガバメント』を発表し、「透明性(transparency)」「政治参加(participation)」「官民協力(collaboration)」という3本の柱を打ち出した。
USASpending 政府支出の場所・金額などがわかる
以後、次々と革新的な施策をしてきた。例えば、「Recovery.gov」や「USASpending.gov」などを通じて、政府の公共事業について、どこに、何を、どれぐらい支出しているか、誰でも知ることができるようになった。またData.govという情報ポータルサイトがつくられた。ここでは35万以上のデータセットを、しかもデータとして利用しやすい形式(マシンリーダブル)で設置している。その意図するところは、政府が有する膨大な情報を公開することで、民間事業者による新たな公共サービス開発を促そうとするものである。
 情報公開だけでなく、直接的に国民の政治参加を促す試みもしている。それが、「We the People」である。こちらは30日以内に5000以上の署名が集ると、ホワイトハウス(大統領府)として対応するというものである。すでに累計で1000万近くの署名を集めている。
 もちろん、すべてがうまくいっているわけではない。例えば「We the People」では、「オバマ大統領の出生証明の公開」とか「マリファナの合法化」などというものが人気が出たりしている。情報公開についても、古いシステムにあるデータ、または紙ベースのデータを、マシンリーダブルな形で公開するのは、大変な作業であり、すべてが予定通り言っているわけではない。ブルームバーグが行った調査でも、基準内の情報公開がされていないという報道もある。
 いずれにしても、第2期目も、オープンガバメントを力強く推進していくことが期待されている。だが先月の就任演説では、オープンガバメントについては言及がなく、現在に至るまで、新たな政策は打ち出されていない。
 しかし、それをもって、ただちにオープンガバメントにオバマ大統領が後ろ向きになったと判断することはできないだろう。例えば最近では、オバマ大統領は、政府の不正密告者に対し大きな保護を与える立法にサインしているし、「We the People」も新たなバージョンの開発を公表している。
We the peopleの署名の伸び

 ともすれば、オープンガバメントは、単なる「情報公開」と受け取られたり、単にデベロッパーの問題とも捉えられがちである。しかしこれこそ、政治参加の新しい試みであり、「公共」を官民協働で担おうとする、壮大な民主主義の実験なのである。大きな政府の借金と低い政治への関心に見舞われている日本も、この取り組みは大いに参考にすべきではないかと考えている。
 オバマ大統領の「民主主義の実験」の行く末を、引き続き注視していきたい。

2013年2月13日水曜日

政治報道の新たな可能性 ―プロパブリカによる大統領選挙特集

 アメリカの民間非営利団体・プロパブリカ(ProPublica)が、2012年に行われた大統領選挙について、継続的なレビューをしている。http://www.propublica.org/series/campaign-2012

 「ダーク・マネーとビッグデータ」というこの特集では、選挙中から現在に至るまで、様々な角度から分析し、いったいどのような選挙であったのか検証し続けている。


 その分析はかなりの規模で行われていて、しかも多岐にわたる。例えば、オバマの選挙戦術に関する分析がある。昨年の大統領選挙において、オバマ陣営は、支援者あるいは支援者となってくれそうな人に対し、こまめにメールを送り、少額の寄付を大量に集めた。そのために、いわゆる「ビックデータ」と呼ばれる、性別、居住地、年齢、宗教、寄付の履歴等々、様々な個人に関する属性のデータから最も「効果的」と思われる文面を送っていたといわれる。もちろん、オバマ陣営がどこから情報を集め、どのような人にどうアプローチをしているか明らかにすることはない(もし、そんなことをしたら、すぐに「政治問題」になるだろう)。そこで、プロパブリカは実際にメールを受け取った190人の情報から、メールには6つのパターンがあることを明らかにし、かつ受け取った人の属性との関係を調べることで、オバマ陣営の手法を明らかにしようとしている。まさにオバマの「選挙マシーン」をリバース・エンジニアしようとする試みである。


 近年、アメリカの選挙で一番問題になっているのは、「スーパーPAC(Political Action Committee:政治活動委員会)」である。候補者本人の政治団体に寄付をする場合、厳密な情報公開のルールがあり、寄付自体にも上限があるが、この任意団体である「スーパーPAC」への寄付は無制限である。スーパーPACは、テレビ広告などを大々的に使って、特定候補者を応援したり、ネガティブキャンペーンを張ることで、大きな影響力を選挙戦で振るっている。にもかかわらず、どの候補者の支援団体か一見よくわからないし、誰がスーパーPACに寄付をして、何にどれほど支出をしているか実態がよく分らない。また、スーパーPACと候補者陣営の関係についても不透明である。

 そこでプロパブリカは、各スーパーPACがどのような活動をしていて、誰を支援しているのか、一覧で表示し、スーパーPACと陣営の資金の流れ、誰がどれくらい寄付しているかなどなど、インフォグラフをつかって、分りやすく提示している。



例:スーパーPACと候補者の支出の流れ



 プロパブリカでは、新しい事実がわかり次第、<追記>がされて、膨大な記事のストックが出来上がりつつある。そして政治資金という、文章では伝わりにくい問題も、インフォグラフを活用することで、視覚的に全体像がわかるような工夫がされている。まさに、ウェブの特性を活かした、これからのジャーナリズムの可能性を示しているものといえよう。

「ネット選挙運動解禁」へ向けた緊急アピール

いよいよ、ネット選挙解禁へ向けて、各党の協議が大詰めになってきました。そろそろ「その先」を見据えないとまずいだろうということで、One Voice Campaignとして緊急提言をしました。
http://blogos.com/article/56020/


2013年2月10日日曜日

【書評】吉本隆明『共同幻想論』


 以前読んだ時は、ほとんど意味が分らなかったが、kindle版が出て、しかも半額(笑)だったということで、久しぶりに読んでみた。
 正直言って、未だに十分に理解できたとは言えないし、自分の成長しなさを恥じるばかりだが、それでも本書に魅力を感じてしまうのは、私たちが生きている「国家」とは、なかでも、いったい「日本」とは何なのか、という疑問に正面から挑んでいる、数少ない書籍だからかもしれない。
 「国家」とは、「日本」とは何かについては、勿論それぞれ様々な本が出てはいる。しかし、「日本」的な文化を称揚するような論者も、それが「国家」とのつながりとなると急に粗雑に議論を展開してしまう(というか寡聞にして、ちゃんと整理している論を見たことがない)。一方、「国家」論に関しても、社会契約論や、暴力装置としての国家などという話を持ってきても、何か物足りなさを感じてしまう。つまり、「近代国家」以前にも、人間は、様々な政治集団を作り出してきたのであるが、そうした人々の意志、みたいなものの問題は無視されているのではないかと思うからである(フーコーもヨーロッパの思想の伝統について、確かそんなことを言っていたと思う)。
 吉本は、「〈国家〉の本質は〈共同幻想〉であり、どんな物的な構成体でもない」と断言する。しかも共同幻想は、国家に特有なものではない。
 「〈共同幻想〉というのはどんなけれん味も含んでいない。だから〈共同幻想〉をひとびとが、現代的に社会主義的な〈国家〉と解しても、資本主義的な〈国家〉と解しても、反体制的な組織の共同体と解しても、小さなサークルの共同性と解してもまったく自由」であるという。
 吉本はこのように人々の「観念」から政治体が構成される契機を考えていく。共同幻想は3人以上から成り立つ。一方で自分自身の「自己幻想」、そして自己幻想と共同幻想の間、つまり夫婦や兄弟といった、一対一の「対幻想」を置く。そして、吉本は『古事記』や『遠野物語』を引き出して、「対幻想」が破られるところから「共同幻想」が生まれることを述べていく。
 共同幻想論の射程は国家論から文学論まで幅広い。例えば吉本は、夏目漱石が夫婦だけの間にある、性愛で結ばれた「対幻想」を求めてたのに対し、妻の方は習俗、つまり「共同幻想」としての家族を営む夫婦を求めたことに、その夫婦関係の悲劇の本質を見出している。
 賛否両論、すでに批評も書評も大量にあるので、その周辺図書も合わせて読むと、より理解が深まるだろう。確かにその原理はわかり易いとは言えないが、純粋に「古事記」や「遠野物語」から吉本が抜き出す逸話を楽しむのもいいだろう。本書については、歴史に残るというぐらい評価する人もいれば、全くダメだと完全否定する人もいて、これほど評価が真っ二つに分かれる本はないかもしれない。だからこそ読んでおくべき本だと思う。

2013年2月8日金曜日

【開催告知】「インターネット選挙運動解禁前夜」に考える僕らの政治

下記のイベントに出ることになりました。。がんばります。

緊急開催!「インターネット選挙運動解禁前夜」に考える僕らの政治 presented by One Voice Campaign | B&B 

http://bookandbeer.com/blog/event/20130215_one_voice/


2013年2月6日水曜日

【論文紹介】山本圭「ポピュリズムの民主主義的効用」鵜飼健史「ポピュリズムの輪郭を考える」

☆取り上げる論文
  • 山本圭「ポピュリズムの民主主義的効用」日本政治学会編『年報政治学 2012-Ⅱ』(2012年12月)
  • 鵜飼健史「ポピュリズムの輪郭を考える-人民・代表・ポピュリスト-」法政大学法学志林協会編『法学志林 第110巻 第二号』(2012年12月)


「ポピュリズム」の諸相

 近年、「ポピュリズム」を巡る議論が盛んである。一般にポピュリズムとは、人々に訴えるレトリックを使って政治的な目的を達成すること、あるいはその際のカリスマ的な政治スタイル、または「人民の意志」を政治的に実現しようとする運動そのものと理解されている。
 ポピュリズムは、民主主義を壊す現象だとして、小泉純一郎の「郵政選挙」から橋下・大阪市長まで、否定的に語る際によく使われる。しかし政治学の見地では、ポピュリズムは必ずしも否定的なものではなく、民主主義である以上、不可避の現象ともいえる。その辺の説明については、吉田徹『ポピュリズムを考える』に詳しい(おそらく本書が最も包括的にポピュリズムを理解できる書籍ではないかと思う)。
 しかし政治学的に捉えるにしても、ポピュリズムをどのように位置づけるかは論者によりまちまちである。
 山本が指摘しているように、ポピュリズムへの評価は「近代民主主義」をどう捉えるかにかかっている。近代民主主義とは「自由主義」と「民主主義」という異質な伝統の混合物である(「近代民主主義の二縒り理論」)。人権の擁護、権力の制限を重視する「自由主義」の伝統からはポピュリズムを警戒する言説が生まれるし、一方、被治者と統治者の一致、人民の直接的な政治参加といった「民主主義」の伝統からは、ポピュリズムに肯定的な言説が生み出されることになる。
 日本でも諸外国でも、「政治不信」は先進国共通の病理である。その原因として、「政治」と「人民の距離」がたびたび挙げられている(例えばジョセフ・ナイ『なぜ政府は信頼されないのか』)。「ポピュリズム」は、この間隙を埋め合わそうとする営みということはいえるだろう。



ラクラウのポピュリズム論

 さて、山本論文も鵜飼論文も、中心となっているのはラクラウのポピュリズム論である。ラクラウは、ポピュリズムを、様々な現象から共通する特徴を抽出したり、あるいは理念型のようなものを導くようなことをしない。もちろん、特定の階級のイデオロギーに還元するようなこともしない。
 人々は個別の要求(「ヘテロ的要求」)を持っている。それが政治的標語(「シニフィアン」)と遭遇することで、政治運動を通じて、「人民(people)」というより大きな集合体のもとに包摂され、最初の個別的要求は正当な地位を得ていくという。そしてそれが民主政治に影響を与えていくことになる。「シニフィアン」それ自体には意味がなく、あいまいなものである(「空疎なシニフィアン」)
 重要なのは、この「人民」はあらかじめ決まっているようなものではなく、動的に絶えず変動し、政治的に構成されるものだということである。ラクラウにとってポピュリズムとは、社会に拡散している様々な要求を結びつけ、集合的な「人民」を構築する過程なのである。
 先に上げた『ポピュリズムを考える』でもラクラウは詳しく論じられている。吉田は、女性の権利を主張する「フェミニズム」と環境問題を重視する「エコロジスト」という、一見接点がない集団も、「現代の物質社会は男性的な価値観に支配された結果である」という言説に出会うことで、共闘する実現性を獲得する、といった例を挙げている。「人民」は、このように「空疎なシニフィアン」を通じて離合集散し、それが「政治」となっていくのである。
 山本は、このようなポピュリズムが、いかなる社会秩序も偶発的に構築されたもので構築されたものであることを暴露し、新しい政治的イマジナリーを創出し、硬直した友/敵対立の境界線をあらためて引き直すなどといった「効用」があると指摘する。そして、ポピュリズムが民主主義の片面であることに自覚的であることによって、自由主義的な諸価値と衝突しないような仕方で、そのような「効用」を抽出し、「「ラグマティックな」仕方で訴える」(P284)べきだとしている。



ポピュリズムの「輪郭」という問題

 一方で鵜飼は、ラクラウのポピュリズム論を評価しつつも、その論理が、「ポピュリストの代表する契機が実質的に議論されていない」(P96)と批判する。
 ラクラウのポピュリズム論では、代表は単純に「代表される者」の声を代弁する者ではない。代表する者が代表されるべき意志を形成することで、代表される者のアイデンティティや利益が構成される。そのように共振しつつ、代表する者はより普遍的な言説につなげるという象徴的な役割を果たしている。
 問題は、このような代表関係は「いつ」、「どのような手続きを経て」成立するのかである。つまりラクラウの論理は、その論理では触れられていない「外部」の存在に依拠しているのではないか。鵜飼がポピュリズムの「輪郭」にこだわるのはそのような理由からである。このような外部をきちんと織り込み、整理しなければ、ポピュリストと人民の垂直的な結合が、ラクラウの考えるような水平的な人々の結合を妨げてしまうこともあるかもしれない。現行のリベラルデモクラシーの諸制度の中で整理して配置しないと、結局のところ、「選挙を通じた民意」対「ポピュリズム批判」というお決まりの「ポピュリズム」は超えられないかもしれない。山本が今後どのような「輪郭」を描きつつ「効用」を引き出していくのか、今後の論文に期待したい。


本の紹介