2013年2月6日水曜日

【論文紹介】山本圭「ポピュリズムの民主主義的効用」鵜飼健史「ポピュリズムの輪郭を考える」

☆取り上げる論文
  • 山本圭「ポピュリズムの民主主義的効用」日本政治学会編『年報政治学 2012-Ⅱ』(2012年12月)
  • 鵜飼健史「ポピュリズムの輪郭を考える-人民・代表・ポピュリスト-」法政大学法学志林協会編『法学志林 第110巻 第二号』(2012年12月)


「ポピュリズム」の諸相

 近年、「ポピュリズム」を巡る議論が盛んである。一般にポピュリズムとは、人々に訴えるレトリックを使って政治的な目的を達成すること、あるいはその際のカリスマ的な政治スタイル、または「人民の意志」を政治的に実現しようとする運動そのものと理解されている。
 ポピュリズムは、民主主義を壊す現象だとして、小泉純一郎の「郵政選挙」から橋下・大阪市長まで、否定的に語る際によく使われる。しかし政治学の見地では、ポピュリズムは必ずしも否定的なものではなく、民主主義である以上、不可避の現象ともいえる。その辺の説明については、吉田徹『ポピュリズムを考える』に詳しい(おそらく本書が最も包括的にポピュリズムを理解できる書籍ではないかと思う)。
 しかし政治学的に捉えるにしても、ポピュリズムをどのように位置づけるかは論者によりまちまちである。
 山本が指摘しているように、ポピュリズムへの評価は「近代民主主義」をどう捉えるかにかかっている。近代民主主義とは「自由主義」と「民主主義」という異質な伝統の混合物である(「近代民主主義の二縒り理論」)。人権の擁護、権力の制限を重視する「自由主義」の伝統からはポピュリズムを警戒する言説が生まれるし、一方、被治者と統治者の一致、人民の直接的な政治参加といった「民主主義」の伝統からは、ポピュリズムに肯定的な言説が生み出されることになる。
 日本でも諸外国でも、「政治不信」は先進国共通の病理である。その原因として、「政治」と「人民の距離」がたびたび挙げられている(例えばジョセフ・ナイ『なぜ政府は信頼されないのか』)。「ポピュリズム」は、この間隙を埋め合わそうとする営みということはいえるだろう。



ラクラウのポピュリズム論

 さて、山本論文も鵜飼論文も、中心となっているのはラクラウのポピュリズム論である。ラクラウは、ポピュリズムを、様々な現象から共通する特徴を抽出したり、あるいは理念型のようなものを導くようなことをしない。もちろん、特定の階級のイデオロギーに還元するようなこともしない。
 人々は個別の要求(「ヘテロ的要求」)を持っている。それが政治的標語(「シニフィアン」)と遭遇することで、政治運動を通じて、「人民(people)」というより大きな集合体のもとに包摂され、最初の個別的要求は正当な地位を得ていくという。そしてそれが民主政治に影響を与えていくことになる。「シニフィアン」それ自体には意味がなく、あいまいなものである(「空疎なシニフィアン」)
 重要なのは、この「人民」はあらかじめ決まっているようなものではなく、動的に絶えず変動し、政治的に構成されるものだということである。ラクラウにとってポピュリズムとは、社会に拡散している様々な要求を結びつけ、集合的な「人民」を構築する過程なのである。
 先に上げた『ポピュリズムを考える』でもラクラウは詳しく論じられている。吉田は、女性の権利を主張する「フェミニズム」と環境問題を重視する「エコロジスト」という、一見接点がない集団も、「現代の物質社会は男性的な価値観に支配された結果である」という言説に出会うことで、共闘する実現性を獲得する、といった例を挙げている。「人民」は、このように「空疎なシニフィアン」を通じて離合集散し、それが「政治」となっていくのである。
 山本は、このようなポピュリズムが、いかなる社会秩序も偶発的に構築されたもので構築されたものであることを暴露し、新しい政治的イマジナリーを創出し、硬直した友/敵対立の境界線をあらためて引き直すなどといった「効用」があると指摘する。そして、ポピュリズムが民主主義の片面であることに自覚的であることによって、自由主義的な諸価値と衝突しないような仕方で、そのような「効用」を抽出し、「「ラグマティックな」仕方で訴える」(P284)べきだとしている。



ポピュリズムの「輪郭」という問題

 一方で鵜飼は、ラクラウのポピュリズム論を評価しつつも、その論理が、「ポピュリストの代表する契機が実質的に議論されていない」(P96)と批判する。
 ラクラウのポピュリズム論では、代表は単純に「代表される者」の声を代弁する者ではない。代表する者が代表されるべき意志を形成することで、代表される者のアイデンティティや利益が構成される。そのように共振しつつ、代表する者はより普遍的な言説につなげるという象徴的な役割を果たしている。
 問題は、このような代表関係は「いつ」、「どのような手続きを経て」成立するのかである。つまりラクラウの論理は、その論理では触れられていない「外部」の存在に依拠しているのではないか。鵜飼がポピュリズムの「輪郭」にこだわるのはそのような理由からである。このような外部をきちんと織り込み、整理しなければ、ポピュリストと人民の垂直的な結合が、ラクラウの考えるような水平的な人々の結合を妨げてしまうこともあるかもしれない。現行のリベラルデモクラシーの諸制度の中で整理して配置しないと、結局のところ、「選挙を通じた民意」対「ポピュリズム批判」というお決まりの「ポピュリズム」は超えられないかもしれない。山本が今後どのような「輪郭」を描きつつ「効用」を引き出していくのか、今後の論文に期待したい。


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