2013年2月10日日曜日

【書評】吉本隆明『共同幻想論』


 以前読んだ時は、ほとんど意味が分らなかったが、kindle版が出て、しかも半額(笑)だったということで、久しぶりに読んでみた。
 正直言って、未だに十分に理解できたとは言えないし、自分の成長しなさを恥じるばかりだが、それでも本書に魅力を感じてしまうのは、私たちが生きている「国家」とは、なかでも、いったい「日本」とは何なのか、という疑問に正面から挑んでいる、数少ない書籍だからかもしれない。
 「国家」とは、「日本」とは何かについては、勿論それぞれ様々な本が出てはいる。しかし、「日本」的な文化を称揚するような論者も、それが「国家」とのつながりとなると急に粗雑に議論を展開してしまう(というか寡聞にして、ちゃんと整理している論を見たことがない)。一方、「国家」論に関しても、社会契約論や、暴力装置としての国家などという話を持ってきても、何か物足りなさを感じてしまう。つまり、「近代国家」以前にも、人間は、様々な政治集団を作り出してきたのであるが、そうした人々の意志、みたいなものの問題は無視されているのではないかと思うからである(フーコーもヨーロッパの思想の伝統について、確かそんなことを言っていたと思う)。
 吉本は、「〈国家〉の本質は〈共同幻想〉であり、どんな物的な構成体でもない」と断言する。しかも共同幻想は、国家に特有なものではない。
 「〈共同幻想〉というのはどんなけれん味も含んでいない。だから〈共同幻想〉をひとびとが、現代的に社会主義的な〈国家〉と解しても、資本主義的な〈国家〉と解しても、反体制的な組織の共同体と解しても、小さなサークルの共同性と解してもまったく自由」であるという。
 吉本はこのように人々の「観念」から政治体が構成される契機を考えていく。共同幻想は3人以上から成り立つ。一方で自分自身の「自己幻想」、そして自己幻想と共同幻想の間、つまり夫婦や兄弟といった、一対一の「対幻想」を置く。そして、吉本は『古事記』や『遠野物語』を引き出して、「対幻想」が破られるところから「共同幻想」が生まれることを述べていく。
 共同幻想論の射程は国家論から文学論まで幅広い。例えば吉本は、夏目漱石が夫婦だけの間にある、性愛で結ばれた「対幻想」を求めてたのに対し、妻の方は習俗、つまり「共同幻想」としての家族を営む夫婦を求めたことに、その夫婦関係の悲劇の本質を見出している。
 賛否両論、すでに批評も書評も大量にあるので、その周辺図書も合わせて読むと、より理解が深まるだろう。確かにその原理はわかり易いとは言えないが、純粋に「古事記」や「遠野物語」から吉本が抜き出す逸話を楽しむのもいいだろう。本書については、歴史に残るというぐらい評価する人もいれば、全くダメだと完全否定する人もいて、これほど評価が真っ二つに分かれる本はないかもしれない。だからこそ読んでおくべき本だと思う。

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