2013年5月31日金曜日

ネット選挙運動解禁と有権者の「主体性」ーネット選挙運動解禁は「静かな革命」か(3)



 戦後民主主義の課題の一つは、丸山真男の議論に代表されるように、いかにして「個々人の主体的な作為」としての民主主義を構築するか、ということだった。日本における市民参加・市民運動の評価はさておき、選挙という局面だけ切り取ってみると、個々人の「作為の契機」はほとんどなかったと言えるのではないだろうか。その原因の一つとして、やはり公職選挙法を挙げざるを得ない。公職選挙法は選挙運動の手段を極めて限定し、やってはならないことを事細かく定めている。「べからず法典」とも揶揄される所以である。「観客民主主義」「おまかせ民主主義」が嘆かれて久しいが、法律で決まっている以上、名前の連呼や、内容の薄いビラ、顔が大写しのポスターの中から「選ぶ」以上の行為は、ほとんどの有権者はできなかったのである。もちろん選挙事務所に行けば、積極的に活動ができるというかもしれないが、それは普通の有権者にとって、あまりにも高い敷居である。
 さて、このたびのネット選挙運動解禁で、果たして有権者の主体性は拡大するのであろうか。現在ではむしろ懸念の方が強い。いわゆる「政治マーケティング」の手法が広がり、見栄えやイメージばかりの情報が横溢することで、さらに有権者は政治を消費するしかない存在になってしまうという懸念である。
 確かにこれまでの傾向からすると、ネット選挙運動解禁後は、これまでないほどの量の情報が政治の側から出てくるであろう。しかし有権者が一方的に操作されるかというと、必ずしもそうとは言えないかもしれない。
 というのは、様々な調査結果から明らかなように、人々は「情報の洪水」にウンザリしているのである。今や広告よりも、信頼されているのはクチコミや友達や家族からの情報である(例えばNielsen, Global Trust in Advertising Survey)。ソーシャルメディアとは、まさに人と人の関係の上に情報が流れるツールである。いくら「量」を増やしても、共感できるものでなければ、ソーシャルメディアでは情報は流れていかない。
 さらにソーシャルメディアは、候補者からイメージや心地よい言葉といった「マーケティングの皮」を引き剥がすかもしれない。候補者は常に、ソーシャルメディアの監視にさらされることになる。携帯での気軽な動画の撮影や実況が、候補者の本音や本性、矛盾した発言を映し出し、あっという間に拡散させるかもしれないからである。
 ネット選挙運動解禁の意義の一つは、このような「ライトな参加」ができるようになったことである。ライトであっても、誰しもが重要な役割をする可能性がある。何気ない「共感」が、増幅・拡散していく可能性を、誰もが持っている。
 もちろん、後援会を中心に回ってきた選挙のやり方、「日本の伝統芸能」ともいわれる選挙のやり方が、急激に変わるとは思えない。人の考え方は、そう急には変わるものではない。しかし現在のインターネットが人々の主体性を向上させるポテンシャルを持つツールであることは確かである。こうしたネットを使いつつ、有権者の立場から選挙に積極的に取り組もうとする運動が各地で出てきている(そうした運動については改めて紹介したい)。重要なのは、諦めずにネットというツールの使い方を模索し続けていくこと、そしてネット上に現れた「作為」を広げていくことではないだろうか。

 そうした「作為」が集まることで、公職選挙法全体が変わっていくかもしれない。私は今回のネット選挙解禁のもう一つの意義は、実はそこにあると考えている。ネット上で様々な選挙、有権者主体の選挙がなされるようになるならば、その一方で、ビラやハガキの印刷代、選挙カーのガソリン代から運転手代まで手厚い公費負担で支えることの是非は、再び議論にならざるを得ないのではないだろうか。知恵と工夫次第で自由に広がるインターネット、その一方で旧態依然とする規制の残る公職選挙法、そのせめぎあいは今回のネット選挙解禁でこれから始まるのである。参議院選挙だけでネット選挙運動の是非を論じられるべきではないだろう。

※本エントリーは谷本晴樹「ネット選挙運動解禁と有権者の「主体性」」『構想日本 J.I.メールニュース No.605』を加筆修正したものです。


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